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大学院工学系研究科 システム量子工学専攻 教授 寺井隆幸 ●燃料電池用の新しい高分子電解質膜を開発 科学に興味を持ったのは、小学校3年生のころです。担任の先生が廃棄処分になった図書館の本を持って帰っていいといってくれて、たくさんの本を読み、そのときにキュリー夫人など科学者の伝記を読んだのがきっかけでした。物理学、化学、天文学にも興味がありましたが、東大に入って社会とつながる工学を選びました。 3年生で原子力工学科に進学した1975年には、核分裂を使う原子力発電は商業化されて10年近くになり、発電所でのトラブルなどが問題になっていました。多くの陽子や中性子を持つ原子核が2つに分かれ、より安定な原子核に変わる核分裂に比べ、陽子や中性子が少ない2つの原子核が合体して安定した形になる核融合によってエネルギーを作り出すのはまったく現実味がなかったのですが、30年先50年先を考えると、卒論のテーマとしてはおもしろいと考えました。以来、材料学を軸に新しい原子力システムや核融合炉工学、水素を利用するエネルギーシステム、それに用いる燃料電池の高度化に関する研究を行っています。 「21世紀COEプログラム 機械システム・イノベーション」では、安全で安心、かつ快適な生活のための水素エネルギーをテーマに、室温で起動できる固体高分子型燃料電池用の高分子電解質膜の合成とその応用を研究しています。すでに従来から使われている製品の3倍のプロトン伝導性を持つ電解質膜の合成に成功し、そのプロトン伝導のメカニズムを知るためのシミュレーションから、電解質膜内部に水分子のクラスターが形成されることを明らかにしました。現在、燃料電池のプロトタイプを作り、実験をしているところです。価格と耐久性の壁を破り、携帯電話やPCのバッテリーからへき地や宇宙まで、水素エネルギーで電力供給することが大きな目標です。 また、燃料電池の触媒として使われる白金が有限で高価なため、新しい触媒の開発もテーマになります。白金粒子の直径を小さくして表面積を増やして反応を高めたり、ほかの元素との合金にしたりする研究を続けています。 放射線のような高エネルギー粒子やプラズマを用いて初めて実現できる材料の開発も行っています。例えば、ダイヤモンドは自然界では高温高圧の地下で長い時間をかけて作られますが、プラズマを用いると、短時間でダイヤモンドの薄膜ができます。このダイヤモンドの薄膜を原子力や水素エネルギーのようなエネルギーシステムへ応用するとおもしろいと考えています。 ここ2年ほど力を入れているのは生体適合材料で、今使われている人工血管やカテーテル、ステントなどを高エネルギー粒子プロセッシングで生体親和性をさらに高める研究をしています。 大学時代からずっと研究している核融合についても国内外のプロジェクトに参加しており、10年後くらいに国際熱核融合実験炉(ITER)の実現が見えてきました。 |
●研究にも人生にもプロジェクトマネジメントのセンスが大事 ヒントを思いつくのは会議や学会の途中や読書の最中で、手帳にはさんだ紙にメモをします。集中できないときには、よく眠り、西洋史や日本の古代史の本を読んだり、研究室のホームページを更新したりして気分転換を図ります。 私の夢は教育と研究を通じて、社会に貢献することです。材料学は派手さはありませんが、21世紀のキーテクノロジーのひとつです。研究で新しい材料やシステムを作り出すこととともに、それを実施する人材を育てることにも夢を感じます。 若い研究者にはプロジェクトマネジメントのセンスを身につけてほしいですね。世の中を見て問題意識を持ち、目標や課題を設定し、プランを立てて実行し、チェック&レビューを繰り返す、そして、研究成果としての論文や製品を作り出す、その過程を積極的に自分で作り上げ、コントロールするのです。これは生き方そのものともいえます。人生はいわばプロジェクトの積み重ねですから。 |
研究室で開発した固体高分子型燃料電池用の新しい高分子電解質膜。コンピューターで シミュレーションを行ったところ、左の従来品に比べ、右の新規開発の高分子電解質膜では 内部に水分子のクラスターが形成され、プロトン伝導が進むことが明らかになった。 |
<略歴> 1983年東京大学大学院工学系研究科博士課程(原子力工学専攻)修了、工学博士。同年、日本学術振興会奨励研究員、翌年から東京大学工学部助手、87年に東大工学部助教授となる。86年11月〜87年2月にはアメリカ・ローレンスリバモア研究所で、92年5月〜93年2月にはドイツ・カールスルーエ原子力研究所でそれぞれ客員研究員として滞在。99年から大学院工学系研究科教授(システム量子工学専攻)。2000年に工学部システム創成学科教授(環境・エネルギーシステムコース)を併任。2005年から現職。 |
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